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最近読んだちょっとおもしろい本の話をします。
その本のメインの主張は『ゼロポイントフィールド仮説』。
あまりなじみのない言葉なので、簡単に解説すると、つまり、、
宇宙がまだできる前、真空の場があったわけですが、その場に揺らぎが生じ、揺らぎがビックバンを発生させ、以来宇宙は爆発のエネルギーで拡大を続けています。
その宇宙創世前の真空の場は未だ存在し続けており、その場を「ゼロポイントフィールド」と呼ぶそうです。
そしてその場には、宇宙の創世以来の「全ての情報」が記録されています。
宇宙の全ての情報ですので、もちろん太陽や地球の誕生も、そこに誕生した生命も、最近になって生まれた知的生命体の情報も記録されているそうです。
そう、これを読んでいる「あなた」の情報も、です。
そんな膨大な情報が記録できるはずないだろう、と一般人は思うのですが、これが「波動」という媒体を使うと記録可能になるのだとか。
波は無限の情報を記録できる、と、ここらへんは素人にはピンとこないので省略します。
これは最新の物理学から唱えられている仮説で、決して論理的根拠のない話でも、荒唐無稽な暴論でもないそうです。
さらに驚くべきことに、そのゼロポイントフィールドには、未来の情報も記録されています。
私達の暮らす3次元世界では、時間は過去から未来への一方通行なので、理解が難しいのですが、ゼロポイントフィールドは次元を超えていますので、そういうことも可能になるらしい。
ここで一つの疑問が生じますね。
ゼロポイントフィールドにあなたの情報があって、しかも未来も記録されているとなると、あなたの未来は既に決まっているのでしょうか。
「記録」というと、一旦書き込んだら不変なものと思いがちですが、ゼロポイントフィールドの記録はどんどん書き換えられていくので、あなたの未来が確定しているわけではありません。
あなたの選択により、ゼロポイントフィールドの記録は時事刻々書き換えられていくのだと言います。
さて、このゼロポイントフィールドは、宇宙、つまりは全ての生命の産みの親ですので、全ての生命は「死」によってゼロポイントフィールドに帰っていきます。
ゼロポイントフィールドは、全ての生命が生まれ、そこに帰っていく魂の故郷です。
そこには過去、現在、未来が混在する、つまり3次元世界的な「時間」が存在しない場所。
ここまで読んだ時、私はこのゼロポイントフィールドとは、一般的に「霊界」とか「あの世」とか呼ばれている場所のことなんだろうと、直感しました。
ゼロポイントフィールドの性質と、私が思い描く霊界の性質が、酷似していたからです。
本の題名は「死は存在しない」というのですが、それは死して後もゼロポイントフィールドで生き続ける、ということを表現しています。
そして全ての人間は、ゼロポイントフィールドから生まれるので、この3次元世界にいる間もゼロポイントフィールドとつながっていると言うのです。
これは、宇宙の全ての情報が格納された世界と、我々は交信可能だと言うことを意味します。
これって、凄いことだと思いませんか?
私もあなたも、アクセスさえすれば、宇宙の叡智を引っ張ってこれるんですから。
もちろん、そう簡単にアクセスできないことは、この世界に悩みが尽きないのを見ても分かります。
著者によると、アクセスできるのは、我々の潜在意識だけ。
潜在意識は心の奥深くに眠っているので、表層の意識から呼び起こすことはできません。
この潜在意識に迫るひとつの方法が「瞑想」であり、「祈り」であるわけです。
瞑想や祈りは、潜在意識にアクセスし、潜在意識からゼロポイントフィールド、つまり霊界にアクセスし、そこから情報(様々な悩みの解決策)を引っ張り出す、ために行うというわけです。
ここから「引き寄せの法則」も説明可能です。
引き寄せの法則とは、ポジティブな思いはポジティブな結果を呼び、ネガティブな思考はネガティブな結果を呼ぶというものですね。
常日頃からポジティブな思考をしていると、ゼロポイントフィールドにアクセスした際、ポジティブな情報を検索してきます。得た情報は、その人の行動に影響しますので、その人にはポジティブなことばかりが訪れます。
逆もまた、しかり、です。
ただし、ゼロポイントフィールドにアクセスできるのは、潜在意識だけですので、潜在意識をポジティブにする必要があります。
いくら表面意識がポジティブでも、深いところでネガティブなら、出会うのはネガティブなことばかりとなります。
ここで大事なのは「セルフイメージ」です。
セルフイメージとは、自分が何者であるかを定義する思考のことです。
「自分は消極的だ」「自分は人付き合いが苦手だ」「自分は冒険ができない」などなど。
あなたも、私も、こうやって自分をある型にはめて自分を定義しています。
私で言えば「自分は表現者だ」というのがメインのセルフイメージでしょうか。
これは別に否定すべきことではなく、自分というものを方向づけするために有益です。
ここで、せっかくなら、セルフイメージを前向きなもの、ポジティブなものに絞りませんか。
ゼロポイントフィールドにアクセスできるのは潜在意識なので、大切なのは潜在意識のセルフイメージですね。
表面意識のセルフイメージを、いくらポジティブにしても、それだけで潜在意識までは書き換えられません。
しかし、表面意識と潜在意識が、全く無関係とは考えられません。
特に現代人は、ネガティブに引っ張られる傾向があるので、表面意識がネガティブでは潜在意識もネガティブになっている可能性が限りなく高いでしょう。
まず、表面意識のセルフイメージをポジティブなもので埋め尽くしましょう。
それから瞑想などで、それを潜在意識にまで落とし込むよう努めてはどうでしょう。
科学的仮説に基づく引き寄せの法則が、あなたに発動する日が来るかもしれません。
科学と心霊現象、霊界が結びつき、補い合う、そういう新しい「常識」が作られる世界を想像すると、ワクワクします。
オカルトなどという言葉で一括りにせず、もっと身近なものとして感じるきっかけを「科学」が与えてくれるなら、それは素晴らしいことですね。
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]]>The post コミュニケーションを阻害しないための2ステップ first appeared on 心のよりどころ.
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今回はコミュニケーションについて考えてみましょう。
コミュニケーション、つまり人との関わりのことですが、これはまさに人間がが生きていく上での基本事項ですね。
様々な人々との関わりなしに生活は成りたちませんし、人として成長することもありませんから。
ビジネスという観点で見ても、円滑なコミュニケーションは「要」と言っていいでしょう。
ビジネスとは人を動かすことです。
物やサービスなど、何かを販売するためには「買う」という行動を促す必要があります。
人を動かすには2つの段階があり、第一ステップは「共感」、次に「納得感」です。
まずもって共感を得なければ、話を聞いてもらえませんので、そこでお終いです。
仮に共感を得ても、こちらの話に「納得」しなければ、当然ながら購買には至りません。
納得とは、顧客のためになるが今まで気づいていなかったことについて、「確かにそうだ」と思ってもらうことです。
この2つをクリアすることで、初めて円滑なコミュニケーションができたと言えるでしょう。
もう少し具体的に話を進めますね。
共感とは相手との共通点を探し、提示することで得られます。
細かいことですが、「○○県出身です」と言うだけで、同県出身者から共感を得られる可能性があります。
自分の体験した苦労話なども、同じ体験をした人の共感を得るのに有効です。
ここで、ちょっと昔のことを思い出しました。
若い頃、演劇活動をしていたのですが、役者として舞台に立ったり、演出家として役者を指導したりしていました。
その際、難しいと感じたのは、演出家と役者のコミュニケーションです。
演出家は、自分の描くイメージ通りに役者を動かしたい。でも役者というのは、そもそも自己主張が強い人ばかりですから、自分が納得しない要求は聞き入れません。
演出家は役者を納得させる必要があるのです。
それにはまず、脚本の主張や各場面で言いたいことについて、合意を得るべく話し合います。
この点の合意がなければ、演出家が何を言っても無駄となります。
これが脚本に対する共通認識、つまり「共感」の構築過程ですね。
共感が得られたら、次に具体的な立ち位置、言い回し、動作について演出をつけていきますが、そのひとつひとつについて役者に「納得感」を与えなければなりません。
論理的に説明することもありますし、阿吽の呼吸で感覚的に納得してもらうこともあります。
ある役者が、この役がどんな街で生まれ、人口が何人で、どんな生い立ちで、友人はどんな人で、などなど、脚本の本筋とは関係ないことまで、全て指定してくれないと演技できないと訴えました。
演出家はそんなことまで考えておらず、その必要性も含め議論となりました。
結局、話し合う中で、役者のイメージを補足するべく、詳細な設定を決め、納得してもらいました。
相手に納得してもらうのは、難しい作業ですが、納得しないと相手は動いてくれません。
時には時間をかけ、言葉を尽くすことも必要になるでしょう。
共感⇨納得 の流れはビジネスに限りません。
上記の例で見たように、表現に場においても重要です。
絵で、小説で、芝居で、相手の心を動かすには、作者が訴えたいメッセージに対し、共感を得て、納得してもらう以外にありません。
「確かにそうだ」と、相手からこの言葉を引き出すための努力を惜しむべきではありません。
よいコミュニケーションは、人間生活の基本であり、人が成長していくための糧となるものですから。
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]]>The post 幸福を手にしてはいけない first appeared on 心のよりどころ.
]]>幸福を望まない人はいない。誰もが、幸福を夢みてがんばっている。
幸福の形は人それぞれだが、それぞれの「幸福という状態」を得ようと努力する。
巷には「夢を諦めるな」という歌が溢れている。
夢とは、その達成によって幸福という状態になる事象のことなので、「夢を諦めるな」は「幸福を諦めるな」とほぼ同義である。
夢、幸福は、全ての人にとって魅惑的な言葉で、人々の努力の源泉だ。
夢があるから人は努力を惜しまないし、幸福を目指すことで成長していく。
幸福を目指すのは人間の本能と言ってもいい。
幸福の形は人それぞれだが、多くの人が思い描くのは、ずばり「お金」だろう。
たくさんお金を得れば幸福になる、と。
だが、それはもちろん幻想にすぎない。
仮に大金を得て、一時的に満足感を味わっても、お金がある状態に慣れてしまえば、たちまち色褪せる。
失いたくない、という新たな心配事も発生し、どんどん幸福から遠ざかっていく。
「理想のパートナー(配偶者)を得る」という幸福も同様、パートナーを得た時は満足感に満たされるが、相手も人間である以上、全てが理想通りというはずもなく、理想と現実とのギャップに満足感は薄れていく。
相手との生活の中で、意見を戦わせ、様々すり合わせて、新たな幸福、二人の関係を築いていくのだが、それは「幸福を目指す努力」にほかならない。
幸福という状態は続かないが、幸福を目指す努力は永遠に続く。
幸福状態が精神の充足によって得られるのなら、「好きなことをやる」のが一番手っ取り早い。
自分が本当に好きで、時間を忘れて没頭できれば、その間は幸福と言えるだろう。
好きなことを仕事にし、毎日寝食を忘れるほどのめりこめれば、毎日が充実する。
それが幸福の永続という点では、最も効果的かもしれない。
そこで「好きを仕事に」というワードが持て囃されるわけだが、これもそう単純ではない。
好きなことなので当然探究心は強くなる。
そして完璧を目指すが、それ故完璧でない自分に悩むこととなる。
「完璧」という永遠に辿り着けない道を延々と歩み続け、夢中になるあまり回りが見えなくなる。
自分が本当にやりたいこと、天命とも言えるものを見つけてしまえば、それに向かってしゃにむに進むしかない。
それが幸福な人生かどうかは、何とも言えない。
島崎藤村は、文豪と言われる大作家だが、代表作「破壊」の執筆中に家族を相次いで栄養失調で失っている。
破壊の出版も自費だった。
小説の執筆という天命を受けてしまった者の、壮絶な人生が果たして幸福だったか否か、一考の余地がある。
これは極端な例かもしれないが、やりたいことを見つけ、充実した時間を過ごせても、世間一般で考える「幸福な状態」にはならないのかもしれない。
幸福とは目指すべきものであり、努力や成長を促す原動力となり得る。
だがそれは、幸福が永続すれば成長、努力が止まることを意味する。
そういう意味で、幸福は目指すべきものではあるが、手中にしてはいけない。
「永続する幸福は幻想」だと自覚すべき。
生ある限り成長、努力を続けることが、本来人間に与えられた「天命」なのではないかと、思うからだ。
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]]>The post 幸せな人生はつまらない first appeared on 心のよりどころ.
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あなたの生きる目的は何ですかと聞かれ、何と答えますか?
「金持ちになること」
「出世すること」
「よい伴侶に恵まれること」
人それぞれの答えがあると思いますが、それらを一言でまとめると「幸せになること」に集約されるのではないでしょうか。
お金を得て、裕福な暮らしをする ⇨ 幸せになる(だろう)
出世をして権力をもつ ⇨ 幸せになる(だろう)
よい伴侶と暮らす ⇨ 幸せになる(だろう)
お金や権力や伴侶が目的ではなく、それらは全て「自分が幸せになる」手段にすぎないわけです。
手段は目的ではありません。目的は人それぞれの「幸せ」の追求ですね。
では、目指す手段を達成すれば幸せになれるのか、というと、人生、そううまくはいかないようです。
お金、権力、伴侶を得て、一時的に幸福感は得られるでしょうが、永続はしません。
お金を得れば、さらに増やそうという欲望や失うことへの恐れに苛まれます。
大きい権力には当然ながら大きな責任が伴い、日々のプレッシャーは倍増するでしょう。
いかに理想的な伴侶でも、別人格である以上、全ての行動が理想的ということはあり得ません。やがて衝突、我慢、妥協が発生します。
つまり、苦労して幸せを得る「手段」を達成しても、また別の壁が立ち塞がり、幸せを遠ざけてしまうわけです。
「それじゃあ、永遠に幸せには到達しないではないか」という声が聞こえてきそうですが、それについては「その通りです」と答えるしかありません。
幸せを求める努力は尊いものだし、人生を動かす原動力です。
大事なのは「幸せを求め努力する」ことであって、「幸福」という状態の維持ではありません。
幸せを求める努力には、様々な困難や苦痛が伴いますが、その困難が心の糧となって成長を促し、人生を切り開きます。
人生の目的は「幸せの追求」だと書きましたが、実はそれに伴う「成長」こそが真の目的なのです。
私は若い頃、懸命に会計の勉強をしていた時期がありました。
家族を養うために、安定した職につきたいと公認会計士を目指していたのです。
当時、私の職は不安定で、いつ減給や馘になってもおかしくありませんでした。
私は「妻や子供たちの安定した暮らし=幸せ」 を求め努力したわけです。
仕事の合間をみて、数年間勉強に励み、何度か試験に挑んだのですが、結局合格には至らず、断念を余儀無くされました。
私が幸せを求め、目指した「手段」への道は閉ざされました。
しかし、と、同時に別の「手段」が現れ、ここ数年の努力は無駄にはならずに済んだのです。
積み上げた知識を活かし、会計専門のSEとして安定した職を得ることができました。
当初設定した手段は叶いませんでしたが、安定した職=幸せ という目的は達成できました。
幸せを求めてする努力は、必ず何かの形で報われます。逆に幸せを諦め、努力を怠れば、人生の幅を大きく狭めてしまいます。
では私の幸せは永続したかというと、そんなはずはなく、慣れぬSE仕事で無理しすぎて入院騒ぎを起こしたり、10年後には離婚という結末を迎えました。
詳細はここでは語りませんが、その時々で壁にぶつかり、壁の先に幸せがあると信じて、しゃにむに突き進んできました。
そのひとつひとつの経験が、私の人生の彩りであり、構成要素です。
では還暦を過ぎた今、お前は幸せなのか? と聞かれても、残念ながらYesとは答えられません。
しかし、幸せに至る「手段」について熟考し、「手段の達成に向けがんばっている」とは自信を持って言えます。
幸せな人生はつまらない。
幸せを求め、工夫し、努力している時間が、人生でもっとも「おもしろい」瞬間です。
そういう時間を積み重ね、「おもしろい人生」を堂々と歩んでいきたいものです。
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]]>The post 40年前 雷鳴に打たれた話 first appeared on 心のよりどころ.
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ものの見方が180度変わる、そんな瞬間が人生には何度か訪れます。
そのきっかけは、戦車の隊列のように、徐々に迫ってくることもあるし、ある日突然、疾風のように襲ってくることもあるでしょう。
今までにない、新しい考え方、ものの見方を発見する。
それは確かに「成長」のチャンスでもあると同時に、迷路の入り口にもなり得ます。
ここで少し、私の若い頃のをお話しをさせてください。
もう40年以上前になります。
私は子供のころから勉強好きで、そこそこ成績もよかったもので、よりよい成績を取ることに邁進していました。
成績がよければ、親や教師から認められるし、何よりよい点を取る快感が心地よかったもので、勉強することに何の疑いも持っていませんでした。
突然ですが、理論か感性か、あなたはどちらを重視していますか。
これについては、人それぞれ、その人の持って生まれた性質によるところが大きいかと思います。
この頃の私は、まさに論理一辺倒で、「この世で理屈で説明できないことはない」と信じていました。
これこそ妄想にすぎないのですが、勉強ばかりしてきた身としては、本で学び、本で知ることが全てだったのです。
本で知識を得ることが自分のアイデンティティとなり、得た知識を体系立てることで満足していました。
希望の大学に入り、学生生活を送る間も、次なる目標に向け、勉強を進めていました。
そんなある日、親しい友人が劇団を作ると言い出しました。
芝居には興味なかったので、入団の誘いは保留していたのですが、結局友人の熱心さに負け、手伝うことになりました。
脚本選びから始まり、素人ながらあれこれ議論し、解釈しながら芝居を作り上げていく。
その過程は、思いのほか魅力的で、これまで「力を合わせる」ということをしてこなかった自分としては、新鮮でもありました。
公演後の満足感、打ち上げでの開放感も心地よく、徐々に芝居に傾倒していったのですが、当時はまだ、新たな趣味を見つけたという程度のものでした。
何度目かの公演の後、次に芝居をどうするか、という話し合いがあったのですが、みなが行き詰まりを感じていました。
自分らに相応しい「良い本」が見つからなかったのです。
日本、海外の脚本を、みなで読み漁ったのですが、どれもピンと来ません。
そこで思い切ってオリジナルをやろう、と話が進み、なぜか私が書くという話になりました。
なぜ脚本など未経験なのに引き受けたのか、その経緯はもう思い出せませんが、ともかく、書かなければならなくなって、日々思い悩みました。
論文しか書いたことがない私が、脚本など書けるはずはありません。
考えても考えても、何も浮かばず、鬱々とした日を過ごしていました。
そんなある夜、布団の中で冴えた頭を持て余していた時、突如雷鳴が脳を直撃したのです。
オリジナル芝居の全ての場面が、同時に浮かび上がったのです。
無数の場面が、同時に脳に焼き付けられたかのような、まさに雷鳴と呼ぶに相応しい衝撃でした。
全ての場面が、あまりに鮮やかだったので、メモする必要もありません。あとはただ、それを文字に起こしていけばいい。
その時「書ける」と確信しました。
その時の衝撃が、私の考え方、見方を180度、ひっくり返しました。
「論理で説明できないことはない」という考えから、「論理ではなにほども説明できない」に変わったのです。
私の受けた衝撃は、論理では説明できないことは明らかでした。
あの大量で鮮明なイメージ群は、どこか「外部」から訪れたとしか、解釈のしようがなかったのです。
ではその外部とは何か? これは説明不能なのですが、ともかく自分の脳以外のどこかです。
ストーリー作成未経験の私の脳に、あんな芸当ができる道理がありません。
この経験は私の人生を、予想もしない方向に捻じ曲げていきました。
学者になるはずだった自分が、気がついたら就職もせず芝居の道にのめり込んで、劇団に所属していました。
ちなみに私を芝居に誘った友人は、卒業後はカタギのサラリーマンになったので、ここで道は別れました。
私は脚本を書きながら、役者として旅公演をしたり、自分で劇団を立ち上げ公演を打ったりと、活動の幅を広げていきました。
しかし、あの夜の衝撃が、その後再現することは、ありませんでした。
若い頃を振り返り、今思うことは、それが正しい道であったのか、自分の成長につながったのか、という疑問です。
もちろん後悔はありません。
俯瞰すれば人生に失敗はない! と思いますので、全ては無駄ではないはずです。
とは言え、あの夜の雷鳴がなければ、考え方を180度転換しなければ、学者としてより「手堅い人生を送れた」ことは確かでしょう。
どちらがよかったのか、一概には言えませんが、考え方を変えればその後の人生も変わる、という好例ではありますね。
新しい見方、考え方を得ることが、そのまま成長につながるとは言えませんが、人生を変えるきっかけにはなります。
勇気を持って、チャンスをつかんでみてください。
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]]>The post 「自分らしさ」は心の底に眠っている first appeared on 心のよりどころ.
]]>けんすけです。
私がいつも意識していることのひとつに、
「自分らしく」ということがあります。
広告などでよく目にしますよね。
「自分らしく」
これって、みな憧れているけど、なかなか思うようにいかない。
なぜかと言うと、「自分らしさ」を見つけるのは、そう簡単ではないからです。
でも「自分らしさ」「自分なりの何か」に向き合うことは、
特にビジネスの世界では重要です。
発信内容に自分らしさがないと、その他大勢に紛れてしまい、商売として成立しないからです。
ここで少し、私の若い頃のエピソードを紹介しましょう。
学生時代に芝居にはまり、20代は就職もせず、演劇活動に明け暮れていました。
旅公演を主に活動している劇団に所属していた時期があります。
当時は4種類くらいの演目を日々順繰りに披露していくので、旅の間は演劇活動自体、ルーティンとなっていました。
演目が子供向けということもあり、役についてあまり深く考えていませんでした。
考えなくとも、体が勝手に動き、子供たちは喜んでくれるので、それで満足していたんですね。
でも東京公演ではそうはいきません。
演目はサルトル。超硬派のがっちりした芝居です。
私は老政治家(悪役です)の役だったのですが、私がいくらがんばって演じても、演出家は不満顔です。
「キャラが見えてこない」
と何度となく言われました。
決して手を抜いているわけではなく、ちゃんと自分なりに感情移入して演じているんですよ。
でも、彼が満足いくレベルになりそうもありません。
私は途方に暮れました。
自分なりの演技とは何か?
自分にしかできない老政治家の姿とは?
考え、工夫して、稽古場で実践するのですが、演出家はダメを出し続けます。
「これ以上、どうしたらいいのか」
芝居は「自分らしさ」というものに向き合う、かっこうの素材です。
演技というと「役を演じる」ので、自分らしらとは違うのでは?
と思われがちですが、それは違います。
役を魅力的にするには、自分にしか演じられないキャラを見せなければなりません。
自分としっかり向き合い、自分らしさ、自分が演じるならどうなるかを追求する。
そうやって作り上げ始めて、役に「自分らしさ」が滲み出てくるのです。
私もこの時は、自分らしさについて悩み抜きました。
初日は刻一刻と近づいてきますが、演技的には完全に行き詰まってしまいました。
そんなある日、稽古場に団長さんが顔を出しました。(演出家と団長は別の方です)
団長さんは、私の演技に対しては何も言わず、
「ちょっと見ていなさい」
と、私をどかして自ら演じ始めました。
そこで私が見たのは「感情の爆発」。
老政治家が、何としてでも思い通りにこと運ぼうとする執念。
その迫力に圧倒され、私の演技が子供の遊びにすぎないように感じました。
団長の演技に度肝を抜かれ、同時に「なるほど」と納得しました。
いくら考えても、あの迫力は出てきません。
逆に考えすぎて、頭でっかちで、不自然な演技になっていたのかもしれません。
それよりも、心の底からの思いを、そのまま吐き出した方が説得力がある。
団長の真似など、やろうと思ってもできません。
役に没入して、そこで沸き出た感情は、間違いなく自分の思いです。
その「私の思い」を、脳の血管がブチ切れるくらいの勢いで、セリフにぶつけました。
そこでようやく、演出家のダメ出しが止まったのでした。
私の出番は中盤の1幕のみですが、芝居全体を引き締める、よいスパイスになったようです。
老政治家がよかった、という声を多くいただきました。
私なりのキャラが作られ、お客さんに届いたのなら、これ以上嬉しいことはありません。
私はこの公演を通し、演技に対し一定の自信を得ることができました。
考えることも大事ですが、考えすぎてもよいものは生まれません。
「自分らしさ」は自分の心の底にあり、それを引き出す過程で見えてくるものです。
簡単なことではありませんが、自分の感情と向き合うことが、そのきっかけになると、私はこのエピソードで学びました。
「自分らしさ」は、私にとってもあなたにとっても、永遠の課題なのかもしれません。
先に書きましたが、ビジネスは「独自性」「差別化」がとても大事で、それは言い換えると「自分らしさ」ということになりますね。
ビジネスを成立させるためには、あなたから買う理由が必要です。
売るもの自体は平凡でも、あなたなりのアプローチができれば、それに共感したお客さんは喜んで買ってくれます。
お客さんの共感を得るには、あなたの感情を大事にすることです。
理屈だけ、頭の中だけで考え出したものより、あなたの感情から出てきた言葉の方が響きます。
あなたのビジネスにあなたの心の底の声を生かしてみましょう。
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]]>The post 回りを信頼できないと問題は解決しない first appeared on 心のよりどころ.
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仕事でも何でも、自分一人でできることなどたかが知れています。
でもチームでことを進めるとなると、一人でやるより、はるかにいろいろな問題が生じてきます。
そんな時、一緒にやる仲間を信頼できないと、いつまでたっても問題は解決しません。
私は若い頃芝居にはまり、20代は就職もせず演劇活動に没頭していたのですが、周りを信頼することの大切さを実感した出来事がありましたので、紹介したいと思います。
私は演劇活動を続ける中で、とあるプロの劇団の入団試験に合格し、役者として活動していた時期がありました。
その劇団は、旅公演で日本中を回るのですが、1ステージいくら、とちゃんとギャラが出ます。
カツカツではありますが、何とかそれで食べていくことができました。
書類で職業欄があると「役者」と書いていましたし、その度「ようやくこここまできたか」と誇らしくもありました。
そんなある日、知り合いの素人劇団が役者が足りないということで、助っ人を頼まれました。
ちょうど旅公演のはざまだったので、快くOKして、練習に参加したのですが。。
そこはやはり素人集団なので、練習を見ていると、いろいろと気になってしまいます。
「そこはもっと喜びを表現した方がいいのに」
「こう動いた方がより感情が伝わるのに」
などなど。
あれこれ批判的な言葉が頭に浮かぶので、それをいちいち台本に書き留めていきました。
自分の出番では、たっぷりと感情移入して演じたものです。
自分はプロだ、君たちとは違う!
という意識がなかったと言えば嘘になります。
自分もつい最近まで素人だったことは棚に上げ、プロを意識して、自分が引っ張らねばという気持ちになっていました。
そして練習終わりの反省会では、台本にメモしたことを読み上げ、ひとりひとりにダメ出しをしていきました。
本来それは演出家の仕事で、イチ役者がミーティングの場で言うことではないのですが、それが自分の役目だと勘違いしていたのです。
演出家はさぞ苦々しく思っていたことでしょう。
他の団員も、迷惑に思っていたと、後で聞きました。
でもプロのプライドに凝り固まっていた当時の私は、そのことに気が付きませんでした。
肝心の演技はどうかというと、自分の演技は自分では見えませんので何とも言えませんが、明らかに浮いていたことと思います。
素人と言えど、日々練習を積み上げていますので、各劇団にはそれなりの色というものがありまあす。
助っ人で入った役者は、ただでさえ浮きやすいのです。
だから本来、助っ人で入ったらまず回りをよく見て、他の役者に合わせていくことから始めなければいけないのです。
それを最初から「自分が引っ張る」と気張って演技をしてしまったら、浮かないはずはありませんね。
演出家も手に余ったのか、私に対する注文も中途半端で、意図を計りかねてしまっていました。
結果、ちぐはぐで違和感のある場面になり、本番が近づくにつれ、焦りは増すばかりです。
何とかしたい、という私の思いが空回りし、ますます問題は大きくなっていくようでした。
私がみなに煙たがれていることは、うすうす感じたいましたが、解決法がわかりませんでした。
本番は刻一刻と近づいてくるのですが、違和感は付き纏ったままです。
何とかしないと、と焦った私は、余計なことは考えずに役に没頭することにしました。
回りの役者の粗探しをするのを止め、よいところだけを見るようにしました。
いざ粗探しを止めてみると、面白いもので、みなの演技が、私の中でなかなか味のあるよいものに変わり始めました。
そこから他の演技者への信頼が増して、自分が引っ張るのではなく、相手に合わせる演技を意識するようになりました。
公演に向けた問題を解決する方法は、意外と身近なところにありました。
私がみなを信頼し、黙って任せていればよかったのです。
その劇団なりのよさが出れば、それで十分観客を満足させることができます。
助っ人の分を弁えず、へんなプライドから、一人空回りしたことで、問題を大きくしていました。
公演に向けた歯車は、よい方向の回り始めたようでした。
さて、チームで一つのことを成し遂げようとすると、無数の問題が出てきます。
その際、互いの信頼関係がなければ、解決は望めません。
解決を焦り、マウントを取ろうとせず、よく回りを見て、信頼を醸成していくこと。
信頼があれば、大抵の問題は解決に向かうはずです^^
最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまた。
けんすけ
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私は若い頃、プロフィールにも書きましたが、お芝居にはまっていました。
最初は仲間内で劇団を作り、公演を重ねていたのですが、徐々にそれでは飽き足らなくなり、他の劇団に顔を出すようになっていきます。
私が所属した劇団のひとつに、旅公演を専門にしているものがありました。
旅に出る前は東京の稽古場で練習を積みますが、一旦出発すると、日本全国ぐるぐる回り、数ヶ月は戻りません。
今回は、その長い旅の間に、東京の稽古場で学んだことを忘れ、芝居を崩してしまった失敗談をお話しします。
何本かの芝居を持って旅に出るのですが、その内のひとつに海賊をテーマにした舞台がありました。
その舞台の一場面で、私が妖しげな仮面を被って
「たいへんだ〜!」
と叫びながら舞台を一周する、というくだりがあったのです。
一周回った後、主人公に、何が大変なのか告げるのですが、
東京の稽古場では、ただ主人公の前に立ち止まる、という演出でした。
旅に出てしばらくした頃、ただ立ち止まるのではなく、
主人公が手にしているノートで私の頭を叩いてストップさせる、という形になりました。
別に深い意味はなく、その方が面白そうだから、ということで変えたのです。
そんなある日のこと、私がいつものように全速で舞台を一周駆け、
主人公が「どうした!」と言って私の頭を叩いたのですが、
その瞬間、私が足をすべらせてもろこけしてしまいました。
相手役の主人公は、段取りにない展開で「しまった」と思ったらしいのですが、
この予期せぬ転倒が大ウケ、大爆笑となって、舞台は大いに盛り上がりました。
これに気をよくした私らは、その動きを定番化して、別の公演でも笑いを取りに行きました。
もともとコミカル要素のある芝居なので、違和感はなかったのです。
ある時、劇団の団長が旅公演を見にきました。
団長は東京の稽古には顔を出しますが、旅の様子を見に来るのは珍しいことです。
いつものように舞台は盛り上がり、メンバーは気をよくしていました。
なので、公演が終了し、団長が皆を集めた話したことに、みな意外な思いを抱いたのです。
「舞台が、稽古の時から随分と崩れいる。乱れて、芝居をつまらなくしている」
公演の演目は、全て団長が書いています。作者としては、ふざけた動きで取る笑いは邪魔だったのでしょう。
私らはウケたいがため、いつしか作者の思いとは別の方向に走っていたのです。
団長のお叱りで、メンバーはそのことに気付かされました。
爆笑という成功体験が、もっと笑いを取りたいという気持ちを助長して、気づかぬうちに当初の演出から離れていきました。
観客は笑ってくれましたが、それで芝居で本当に伝えたいことがうまく伝わらなかったとしたら、それこそ本末転倒というものです。
芝居に限らず、成功体験は知らず知らず、方向性を変えていきます。
例えばビジネスでも、最初は
「よいサービスを提供して、誰かの役に立ちたい」
という志を持っていたとしても、
一旦大きく売れてしまうと、次にはより「売れる」工夫をし始めます。
それがやがて「売れればいい」というビジネススタイルに変わっていく。
その危険は誰にでもあります。
何に挑戦するにしても、時代の流れは早いので、
手を変え品を変え、順応していくことは正しいのですが、
それが結果的に、当初の意図と違うところに行き着く原因にもなります。
自分の変化はなかなか気づきませんし、通常振り返ることもしません。
旅公演でも、団長に指摘されて初めて「そうか」と自省するキッカケを得ました。
今自分のやっていること、目指していることが、
「本当に自分にとって正しいことなのか」
一度振り返ってみてはいかがでしょう。
そのための指針は、
「初心に戻る」
ことで得られます。
何につけ、始めた頃の、まっさらな気持ちを思い出してみてください。
その中に、新たな気づきがあるかもしれませんよ。
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サイバー空間が大手を奮っている昨今、リアルはどんどんその居場所を失いつつありますね。
仕事でも買い物でも、WEB経由で何でも済んでしまうのは、やはり便利です。
私も現在テレワークで仕事をしていますし、買い物はAmazonです。
家から一歩も出ない日も多いです。
でも、特に家で仕事をしていると、ずっと家にいることが本当に便利なのか、疑問に思うこともあります。
そんな時に、ふと、若い頃のことを思い出しました。
私は若い頃芝居にはまり、旅公演をしながら、ツアーバスで全国を回ったりしていました。
薄暗い舞台の袖から、煌々と照らされた舞台と、その上で輝く仲間の演技を見ながら、出番を待つ時の緊張感、高揚感は、今でもはっきりと覚えています。
いざ舞台に出ると、もう俎板の上の鯉と同じ、逃げることはできません。
何が起ころうと、自分の瞬発力だけが頼り、自力で切り抜ける以外にはありません。
相手役がセリフを飛ばす、スタッフがキッカケを逃す、などなど。
セリフを忘れ、頭が真っ白になり舞台に立ち尽くすという夢など、何度見たかわかりません。
(幸運なことに、そういう事態には一度も遭遇しませんでしたが。。)
舞台から客席を見ると、真っ暗で、客の様子は全くわかりません。
およそ1000人くらい入っているはずなのですが、シンとしてもの音ひとつしないのです。
どんな人が来場して、どんな顔で、どんな姿勢で見ているのか。
芝居の目的は、お客さんに見てもらうことです。
もっと言うと、お客さんの期待に応えることです。
お客さんが、わざわざ足を運ぶのは、当然ですが、舞台に対する期待があるからです。
それに応えられなければ、演ずる意味はありません。
だから、舞台上で役者が一番気にするのは、お客さんの「気持ち」です。
自分らが、お客さんの「気持ち」をしっかりと掴んでいるかどうか。
芝居を進めていく間にも、意識は常に客席に向いています。
セリフを掛け合っていれば芝居が成立する、と思ったらそれは大間違い。
セリフは芝居の一部にすぎません。
もちろん、照明や音楽などの演出もありますが、それも芝居を装う装飾に過ぎません。
芝居を成立させているのは、舞台と客席を一体とした「空間」です。
客席は芝居を形作る空間の一部であり、客席が芝居の出来を左右します。
セリフも演出も全く同じなのに、客席次第で、よい芝居にもなるし、またその逆にもなります。
先ほど、舞台から見る客席は「真っ暗」だという話をしました。
何も見えないのですが、役者は見ている人の「気持ち」を感じることができます。
お客さんひとりひとりが、どう感じているかは、分からないです。
でも、1000人という観客の塊が、どう感じているかは、わかるのです。
2000の目が自分の一挙手一投足を見逃すまいとしている、そう感じた時に、集中力は極限まで高まり、セリフに力がこもります。
その力が相手役にも伝わり、舞台が完成されていくのです。
役者の観客の「空間の共有」が、芝居世界を作り上げていくのに、絶対に必要でした。
思い出話はこのくらいにして、現実に話を戻しましょう。
私は今、リモートで仕事をしています。基本、PC作業なので、リモートでも仕事は進みます。
進みますが、仕事仲間との空間は共有されていません。
各メンバーの、名前は分かるものの、顔は見たことがありません。
名前はWEB上の記号に過ぎず、そこから人間は読み取れません。
仕事に限らず、空間を共有してこそ分かることは多々あります。
リアルで話せば、相手の「気持ち」を感じ取ることができ、それがコミュニケーションの本来の姿でしょう。
WEBは「一見」便利なようですが、見かけの便利さの影にさまざまなデメリットが潜んでいます。
空間を通してこそ伝わるものを大事に。
芝居、コンサートなどエンタメだけでなく、仕事でもリアルを重視していきたいものです。
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明確に「これだ!」と答えられる人はマレでしょう。
目的が決まれば、それを実現するための手段も決まり、自ずと手順も決まってきます。
つまり、人生に迷いがなくなる、ということですね。
この世の大多数の人は、ああでもない、こうでもない、と、日々迷い、悩みながら生きているわけで、
つまり人生の真の目的を知らない、あるいは探している状態だと言えます。
「自分はこのために生まれてきた」
と、はっきり言える人は、それだけで恵まれています。
だって、それだけ迷いがなく、悩むことが少ないということですから。
人生の真の目的など探さなくとも、生きてはいけます。
結果、あれこれ悩んだとしても、それで生活が破綻することはありません。
だから、「自分の人生、これでいいのか?」と悩んでいても、テーマが重いだけに、つい、考えることを避けてしまいます。
でも、この「人生の真の目的」は、決してかけ離れた遠いテーマではなく、日常のちょっとした場面で顔を出してきます。
例えば・・・
会社の仕事に気が乗らない、やる意味を見出せない、としたら、何か原因があるはずです。
業績を上げなければ、評価が下がるので、もちろん頑張るのですが、心は虚しく、充足感は得られません。
胸の中のどこかが抵抗していて、その抵抗が日々強くなっていることに薄々気付いているのだけれど、自分の心に蓋をし、鞭打って、仕事に励みます。
そんな人は、少し立ち止まって考える必要があります。
この「心の抵抗」は、会社の仕事が「人生の真の目的」から、はずれていることから来ているのかもしれません。
「それは違うよ」という、無意識からのメッセージかもしれないのです。
そこに気づくには、「人生の真の目的」を、ある程度言語化しておく必要があります。
無意識の領域から、意識できる次元まで引き上げるのです。
そうすることで、今自分がやっていることが「人生の真の目的」にかなっているか、判断することができるようになります。
とは言え、人生の真の目的など、そう簡単に見えてくるものではありませんね。
だからせめて、常日頃から意識して、探す努力をしてみてはどうでしょう。
今の時点での目的でもかまわないので、言語化しておけば、悩み解決の糸口になります。
また、悩み解決以外にも、「人生の真の目的の言語化」は、使い道があります。
現状維持バイアス、正常化バイアス、という言葉をご存じでしょうか。
現状維持バイアスとは、現状を変えたくないという思いから新たなチャレンジを避ける傾向のこと。
正常化バイアスとは、危険が迫っていても「自分は大丈夫」という思いから行動をしない傾向のこと、です。
このままじゃいけない、とわかっていても、行動しない人は山ほどいます。
行動を抑制するのは、この2つのバイアスのせいです。
このままじゃいけない、でも、今すぐ困るわけじゃない、じゃあ、今は行動せずにおこう・・・
こう考えることがバイアスです。
本当に危機が迫っていても、なかなか行動に移せないなら、まして、現状改善のための行動など起こせるはずがありませんね。
行動を起こさない理由など、いくらでも作れます。
忙しい、お金がない、などなど、いかにももっともらしい理由で、自分を納得させます。
「○○だから、今はやめておこう。そのうち、またやる機会があるさ」
でも、その機会は永遠にやってこないのです。
なぜなら、具体的な事象ではなく、心理バイアスが行動しない真の理由だからです。
もし、ここで、「人生の真の目的」が言語化されていたらどうでしょう。
無意識の領域から、心理バイアスが忍び寄ってきても、自分の意識で跳ね返すことができます。
「真の目的に叶っているから、これは今やるべきだ」
と結論できるでしょう。
この心理バイアスは、誰でも持っている、強烈な行動抑制装置です。
現状を改善するために、または、迫りくる危機を回避するために、
なんとかこれを突破しなければなりません。
そのためにも
「自分がなんのために生きているのか」、
つまり「人生の真の目的」について、
考察する習慣をつけるといいですね。
すぐには見えてこなくとも、まずは「そういうものがある」と信じ、探すことから始めましょう。
人生を変えるには、行動を変える以外にありません。
あなたが日々抱える悩みに対する答えを見つけ、また、新たなチャレンジをするきっかけになることは、間違いありません!!
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