幸福を手にしてはいけない
幸福は、目指すべきものではあるが、決して手が届かない、そういうものだと思う。
幸福を望まない人はいない。誰もが、幸福を夢みてがんばっている。
幸福の形は人それぞれだが、それぞれの「幸福という状態」を得ようと努力する。
巷には「夢を諦めるな」という歌が溢れている。
夢とは、その達成によって幸福という状態になる事象のことなので、「夢を諦めるな」は「幸福を諦めるな」とほぼ同義である。
夢、幸福は、全ての人にとって魅惑的な言葉で、人々の努力の源泉だ。
夢があるから人は努力を惜しまないし、幸福を目指すことで成長していく。
幸福を目指すのは人間の本能と言ってもいい。
幸福の形は人それぞれだが、多くの人が思い描くのは、ずばり「お金」だろう。
たくさんお金を得れば幸福になる、と。
だが、それはもちろん幻想にすぎない。
仮に大金を得て、一時的に満足感を味わっても、お金がある状態に慣れてしまえば、たちまち色褪せる。
失いたくない、という新たな心配事も発生し、どんどん幸福から遠ざかっていく。
「理想のパートナー(配偶者)を得る」という幸福も同様、パートナーを得た時は満足感に満たされるが、相手も人間である以上、全てが理想通りというはずもなく、理想と現実とのギャップに満足感は薄れていく。
相手との生活の中で、意見を戦わせ、様々すり合わせて、新たな幸福、二人の関係を築いていくのだが、それは「幸福を目指す努力」にほかならない。
幸福という状態は続かないが、幸福を目指す努力は永遠に続く。
幸福状態が精神の充足によって得られるのなら、「好きなことをやる」のが一番手っ取り早い。
自分が本当に好きで、時間を忘れて没頭できれば、その間は幸福と言えるだろう。
好きなことを仕事にし、毎日寝食を忘れるほどのめりこめれば、毎日が充実する。
それが幸福の永続という点では、最も効果的かもしれない。
そこで「好きを仕事に」というワードが持て囃されるわけだが、これもそう単純ではない。
好きなことなので当然探究心は強くなる。
そして完璧を目指すが、それ故完璧でない自分に悩むこととなる。
「完璧」という永遠に辿り着けない道を延々と歩み続け、夢中になるあまり回りが見えなくなる。
自分が本当にやりたいこと、天命とも言えるものを見つけてしまえば、それに向かってしゃにむに進むしかない。
それが幸福な人生かどうかは、何とも言えない。
島崎藤村は、文豪と言われる大作家だが、代表作「破壊」の執筆中に家族を相次いで栄養失調で失っている。
破壊の出版も自費だった。
小説の執筆という天命を受けてしまった者の、壮絶な人生が果たして幸福だったか否か、一考の余地がある。
これは極端な例かもしれないが、やりたいことを見つけ、充実した時間を過ごせても、世間一般で考える「幸福な状態」にはならないのかもしれない。
幸福とは目指すべきものであり、努力や成長を促す原動力となり得る。
だがそれは、幸福が永続すれば成長、努力が止まることを意味する。
そういう意味で、幸福は目指すべきものではあるが、手中にしてはいけない。
「永続する幸福は幻想」だと自覚すべき。
生ある限り成長、努力を続けることが、本来人間に与えられた「天命」なのではないかと、思うからだ。
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